真宗とは

本尊:  阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
宗祖:  親鸞聖人
所依の経典: 浄土三部経(佛説無量寿経、佛説観無量寿経、佛説阿弥陀経)
宗旨:  浄土真宗
宗派:  真宗大谷派
本山:  真宗本廊(東本願寺)

真宗の教え

○本願を信じ、念仏申さば、佛になる
親鸞聖人が述べられたお言葉を書き記した有名な「歎異抄」に、
『他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(教)は
本願を信じ(信)念仏もうさば(行)佛になる(証)、
そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや』
と簡潔に真宗の教えの根幹が明らかにされています。

○真実を宗とする
真宗というのは、親鸞聖人によって明らかにされた教えで、
私の悩みや苦悩を超えて行く道です。
祈って奇跡を求めて悩みや苦を超えるのではないし、
現世利益を追い求めるものでもありません。
事実をそのまま事実と見つめ、道理を知ることによって、
それをそのまま引き受けていける身に転ぜられていく教えです。
真実を宗として、愚かな自分自身を課題にして、
問い求めるものこそが真宗であります。

○南無阿弥陀仏
南無というのは、命も心もすべて佛に投げ出す、
つまり「頭が下がる」とか「よりどころとする」、
また「お任せする」ということを表しております。
また、阿弥陀仏とは、無量寿、無量光ともいい、
正信偈に「大悲無倦常照我」と述べられておりますように、
私たちは限りのない慈悲と智慧に包まれている存在であります。
大いなるものに触れるということは、
私自身がちっぽけな存在であることに気づかせ、
傲慢な自我(思い通りにしたい我がまま)
が打ち砕かれることでもあります。
「お内佛」に安置されている阿弥陀さまは、本来、
色も形ましまさない如来の真理そのものである法性法身
でありますが、世の人々を導くための手段として
形を現し出された方便法身の像(お姿)であります。

○浄土
阿弥陀さまが、私たちいのちを生きるものを悉く迎えとろうと
願われている浄土とは、自分の欲望が叶うか叶わないかにとらわれることなく
生きることのできる、どんなことがあっても安心してうけとめることのできる、
自分勝手の思いから開放される世界です。
仏典によってきらびやかに荘厳され極楽国土と呼ばれている浄土に出遭ってこそ、
初めて思いに合わない事実を引き受けられない自分の心が苦悩のもとになっていることに
気付かされるのです。
阿弥陀さまは、そのような私たちを憐れみ見捨てることなく、
みな悉く浄土に往生せよと願い、誓われ続けておられます。 

○他力
よく考えてみれば、私たちは、何一つ思い通りになりません。
すべて思いを超えた不可思議な働きの中に生かされているのです。
「自力無効」なのです。その自己を超えた働きを他力といい、
本願力というのです。
そのなかで、我を張って独り相撲をとって苦しんでいるのが、
この「私」です。自我に執着した私の「はからい」を離れて、
あるがままの事実に身を任せれば、
苦を超えた安らかな世界が開けてきます。 

○本願
私たちが存在するということは、生かされていることです。
佛は、大きな無限の願い(本願)によって私たちを生かし、
支えていてくれるのです。
そして、
真実に目覚めさせずにはおかないという願いを
かけ続けていて下さいます。
佛のお心を頂くことを信心獲得といいます。
一般の信心とは逆に仏さまの心、つまり、
大慈悲心という私たちに願いをかけ続け下さる
仏のお心を信心と呼び、
それを聞き学ぶ(聞信する)ことによってこそ
信心を獲得することができます。
このように浄土真宗は、祈ったり、戒律を持ったりしません。
勿論、占いや迷信も否定します。
本願を信じ念仏を申して、生かされる「いのち」に目覚めて、
それを喜び、恩に報いる生活をする教えなのです。

○いのち
「自分のいのちをどう扱おうと自分の勝手」というように、
「いのち」をどこまでも私物化し、死を見つめることを遠さけて
少しでも長くより快適に生きたいという「私」がここにいます。
「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」
というように必ず死ぬいのちであり、
それまでの「生」を際立たせる終末としての
死に意味を見出せなかったら、
一体なんのために生きてきたことになるのでしょうか。
空しい一生になるのではないでしょうか。
「いのち」とは、私の死後も人間本来の願いとして、
次世代の者の中に生き続け、
どんな境遇においても生きる力となってくださる
「阿弥陀」の「いのち」なのです。
「今、いのちがあなたを生きている」
という宗祖の御遠忌法要のテーマの「いのち」とは、
まさにこの「いのち」です。

○自信教人信
このことは、決して個人的なところに留まることではなく、
社会のあらゆる課題を自分のこととして受けとめていくとき
共に救われていく道が開かれてくるのです。
自らが主体的に聞信することが、
他の人々を教え信じさせることになります。
この「自信教人信」の誠を尽くすことが、
真宗門徒としての証しといえます。

真宗の歩み


○親鸞聖人

出家得度〜比叡〜吉水
私たちの宗祖は親鸞聖人です。
親鸞さまは、幼い時の両親との死別を通し、
いのちの尊さと厳しさを実感し、
人間として生まれた意義を明らかにするために、
9歳の時、青蓮院を訪ね慈円のもとで出家得度され、
その後、比叡山で修学に励み、難行苦行にもひたすら取り組まれましたが、
自己を見つめ、修行をすればするほど自らの力の限界と、
無力さ、罪深さをいよいよ深く知らされ悩み苦しみます。
その苦悩を解き明かそうと、六角堂に篭った時に、
聖徳太子のお告げをうけて、吉水の草庵に法然上人をお訪ねすると、
「念仏は、自分の愚かさを自覚していく道です。
苦悩を超えるには、ただ南無阿弥陀仏と称えて、それを信じて、
その大きな願いに生かされていることに気付くほか何れの道もありない。」
と申され、はじめて本願念仏の教えに目を開かれたのです。

雑行を棄てて本願に帰す
親鸞は そのお言葉に深く感動を覚え、
『教行信証』に「雑行を棄てて本願に帰す」と、
師法然上人との出遇いを感慨を込めて記しています。
しかし、法然の判りやすい念仏の教えが次第に広まると、
それを快く思わぬ奈良や比叡山の僧たちは朝廷に訴え、
時の権力を動かして吉水の教団を解散させました。
親鸞も無実の罪に問われて越後へ流罪となりました。

関東移住
それをご縁と受け止めて越後の人々にお念仏の教えを説いて回られました。
暫くして、師のご恩に報いるには、一人でも多くの人に、
お念仏の教えを伝える以外にないと、
開拓移民と共に越後を後にして関東に赴かれ、
関東はもちろん奥州にまでお念仏の教えを広められました。
そのころ、自ら「親鸞は、弟子一人ももたず」といわれ、
すべての人を「御同朋、御同行」と呼び、
全ての人を佛の弟子とみなされていました。
各地にお念仏の教えを学ぶ集団ができ、
やがて門徒と呼ばれるようになりました。

帰洛
69歳を過ぎた親鸞は、住み慣れた常陸の国を後に京都に帰られ、
自身の信仰生活の喜びを「三帖和算」「愚禿鈔」「浄土文類聚鈔」
として著し、
また関東の門弟からの問いに応えて何度も丁寧なお手紙を書き送り、
また、稲田の草庵で起草し始めた浄土真宗の教えの根本が著わされている
「顕浄土真実教行証文類」を納得のいくまで書き改めておられましたが、
1262年(弘長2)11月28日に、
仏道に捧げ尽くされた90歳のご生涯を閉じられました。
翌日29日に鳥辺野で火葬にされ、
そのお骨は、東山の大谷の地に廟堂を建てて納められました。

真宗本廟
本廟の由来 その廟堂は大谷御影堂といい、
ながく聖人の遺徳を後世に伝えるささやかなお堂でしたが、
息女の覚信尼がそこの留守職に就かれました。
この廟堂が現在の真宗本廟、つまり本願寺の最初の姿と言えます。

本願寺の創立
3代目の覚如が元亨元年(1321)本願寺と名のり、
本願寺としての歩みが始まります。
しかし、同じ真宗の佛光寺に圧倒されて、本願寺は、
旧い慣習と真宗の教えの谷間で、深刻に求道し、
教化も真剣で具体的であったその純粋さのために、
教団としては発展せず、
「さびさびとしておわします」と言われるほど沈滞しておりました。

○大谷破却〜吉崎〜山科〜大阪へ

東西分派
その後、第11代の顕如の時代、時の権力者織田信長との紛争で、
多くの門徒衆を巻き込んだ「石山合戦」が起き、
当地方からも多くの門徒が馳せ参じたと思われます。
停戦後、第12代を長子の教如が継職しますが、
秀吉から隠居を命じられ弟の准如に譲ります。
このことが本願寺の東西分派に繋がっていきます。

東本願寺の創立とその後
その後、教如は慶長7年(1602)、
家康から七条烏丸に四町四方の寺地の寄進を受け本願寺を興した。
これが東本願寺(真宗大谷派)の始まりであります。
この頃から教団は、幕藩体制に組み込まれ、
本末制と寺檀制が確立され、幕府も「宗門改め」を断行したりした。
また、門徒組織である「講」が各末寺に作られ、
講での聞法を通して法義相続、教団護持の役割も果たした。
当寺にも数多くの「講」が、
今もなお門主からの「御書」を中心に毎月開催されている。
当寺の代表的なものに、
「二十二日講」、「十四日講」、「二十八日講」、「新田二十八日講」などがある。
明治政府の宗教政策は古神道再生に置かれ、
「神仏分離令」によって廃仏毀釈が厳しく行われて、
全国の仏教徒の危機感を煽った。
やがて、条件付の信教の自由が認められて、沈静化に向った。

教団の近代化
幕藩体制下にあって旧態依然としていた真宗教団を憂い、
改革を訴えたのは清沢満之等であった。
その改革運動は順調には進まなかったが、
その信念と教学は雑誌「精神界」で表明された。
その精神主義は、「自己とは何ぞや。
是れ人生の根本問題なり」ということばに示されているように、
仏教本来の道である自覚道へ回帰しようとするものであった。
その精神は、
佐々木月樵、暁烏 敏、多田 鼎、曽我量深、金子大栄らによって受け継がれ、
教団の近代化が図られた。

真宗同朋会運動
その後、親鸞聖人700回御遠忌法要を機に、
「家の宗教から個の自覚の宗教へ」をスローガンとする、
現代社会における真の人間回復の運動として
「同朋会運動」が展開され、現代に至っている。

宗憲改正
この運動が推進されるなか、
所謂「教団問題」が起こったが、即決和解を承けて、
昭和56年(1981)に宗憲の改正が成された。
そこで、「門首制」が確立され、
同朋を代表して本廟の留守職にあたられる本来の姿に戻られ、
本願寺も、本来のあり方である真宗本廟と位置づけられた。
さらに、宗門は、
「同朋公議」に基づき、
僧侶の「宗議会」と門徒の「参議会」という二院制によって運営されることになった。

現在の東本願寺
一方、東本願寺は御影堂、阿弥陀堂等を建て本山としての伽藍を整えていったが、
度々火災に遭い、その再建は、
幕末から明治へと激変の時代であったので、
漸くして明治13年釿初め、
明治28年(1895)に門末の並々ならぬ努力の結晶として、
現存する日本一巨大でしかも壮麗な木造建造物である両堂が完成し、
明治44年に至る間に、鐘楼堂、御影堂門、勅使門等が次々と建立されていった。
その時、設立された「相続講」が、
法義相続、本廟護持の念を顕すものとして、
今なおその精神は脈々と流れて今日に至っている。
その再建以来百有余年を経た両堂を、
2011年厳修の親鸞聖人750回御遠忌法要を目指して大修復に着手した。

真宗大谷派(東本願寺)の系譜
初 代:親鸞
2 代:如信
3 代:覚如
4 代:善如
5 代:綽如
6 代:巧如
7 代:存如
8 代:蓮如
9 代:実如
10 代:証如
11 代:顕如
12 代:教如
13 代:宣如
14 代:琢如
15 代:常如
16 代:一如
17 代:真如
18 代:従如
19 代:乗如
20 代:達如
21 代:厳如
22 代:現如
23 代:彰如
24 代:闡如
25 代:淨如

知多の真宗
さて、目を転じて当地の真宗の流れを見ますと、
真宗の教えは、親鸞や蓮如の足跡のある三河から実如、証如時代に
教線を伸ばして尾張や知多へ流れ込み、知多の拠点は、
大野の光明寺と成岩の無量寿寺で、
いずれも寺中や掛所・末寺を抱える大坊であり、
その配下の多くの寺々に門徒衆が結集していきました。
当皆満寺は、知多では珍しく本願寺直参(直末)の寺でありました。
その後、社会情勢の変化に伴う人口増加などで、
現在、知多地方に30ヵ寺の真宗大谷派寺院が教化活動や法務に励んでいます。

○蓮如上人
蓮如上人のご生涯
真宗中興の祖と言われる蓮如上人
(特に北陸では「蓮如さん」と親しく呼ばれている)
は本願寺第8世の職に就かれます。
蓮如は、全心身を挙げて親鸞に帰依し、
親鸞の書き著した書籍などを「読み破る」ほど、
その教えを徹底的に学びとられ、真実の道はこれしかない、
親鸞の教えを正しく伝えるのは本願寺しかないと、
「親鸞に帰えれ」と叫び続け、「真宗の再興」を果たされます。
それを不満とする叡山の圧力で都を追われ、
近江の門徒の扶けを受け、やがて、吉崎へ移り、
そこに坊舎や多屋が建ちならび、多くの門徒が群集し、
そこが所謂一大宗教都市となりました。
その頃起こった一向一揆という宗教的・社会的問題から
身を引いて京都へ帰られ、山科本願寺や石山本願寺を創建されますが、
85歳で波乱に満ちたご生涯を終えられました。

蓮如の教え
念仏の教えは法然上人が創められ、
親鸞さんがそれを純粋に深く究め、
蓮如さんがその教えを広められたといわれ
親鸞が灯した純粋な信仰の明かりを、苦しみもがき、
闇の中にうごめく名もない無数の人々に、一人でも多く手渡し、
その教えの灯火を決して消すまいと、
真宗の肝心要の教えを、易しい文章で誰にも読みやすく、
しかも判りやすい「御文」を書き続けられました。
また、「正信偈」のお勤めも始められました。
その結果、本願寺は飛躍的な巨大教団を形成するようになりました。

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紫寶山 真廣寺
ご本山での声明の講習会で
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